雨宮良三 編訳
A5判/398頁
※発行:創医会
(お取り寄せに数日いただく場合がございます)
折衷派の泰斗として一世を風靡した和田東郭の書。更に「含章齋方函」および浅田宗伯の「先哲医話『和田東郭』」を加え、読者にわかりやすく意訳。
東郭は寛保3年(1743年)に、摂津の国、高槻(今の大阪府高槻市)に生まれた。東郭は名を璞、字を韞郷または泰純と称した。東郭はその号であり、また含章斎とも号した。
東郭の父親は名を祗忠といい、高槻藩の瘍科(外科)の医官で、父により東郭は本道(内科)を専攻させられた。幼少の頃は伊丹の竹中節斎のもとで勉強し、やや長じて大坂の名医、戸田旭山に入門した。
旭山は備前の武士だったが、家督を弟に譲り、京都で医業を始めた。しかし患者は来ず、極貧のため按摩をするなどし、やがて開業する機会を得て成功を納めた。旭山は後世方の医家で、非常に忠誠心が厚かく、病人を救うことが医学の目的であるとしていた。
26歳の時に意を決して戸田旭山のもとを去り、古方派の吉益東洞に入門した。東洞の医術は『傷寒論』や『金匱要略』のみを拠り所とし、また、万病は毒に因るとする「万病一毒説」を掲げていた。東郭も東洞流の医学を熱心に学び、古方の優れた面を認めつつも、東洞の治療に疑問を持ち始めた。東郭21歳の時、吉益東洞が亡くなったのを機に、古方のみの医学に別れを告げた。
東郭は、はじめ二条公に仕えた、24歳で御医となり、天皇にお仕えすることになった。たまたま、子ができない中宮を診察し、その原因は「久寒」であるから、附子などで温めるのがよいと進言した。東郭の言うとおりに治療したところ、はたして翌年に皇子が誕生し、この功績により東郭は医師としては最高位の法眼に叙せられた。56歳のことである。しかし4年後の享和3年(1803年)に病没し、京都の東鳥部山に葬られた。享年60歳。
東郭は「傷寒論の方が如何に妙方であっても、古書残欠故、何としても足りない処が有る。この足りない処を今方で補うことが出来るのは、後世に生まれた医師の幸である」として、後世方であれ、古方であれ、民間療法であれ、患者を治すためなら何でも取り入れという折衷の法で治療を勧めた。この治療は中庸を重んじ、吉益東洞のように激しいものではなく、温和な治療法であったため、広く医師たちの間に浸透していき、百々漢陰、有持桂里、浅田宗伯など日本の傑出した漢方医に大きな影響を及ばした。
和田東郭の著書は多い。しかし、治療の術は筆でも口でも現わすことができず、一心不乱に治療に専念して初めて会得できるものであるとの信念から、東郭自身は自ら医術を書き残さず、そのほとんどは口述筆記によるものである。主な書籍としては『蕉窓雑話』『傷寒論正文解』『蕉窓方意解』『腹診録』などがある。
東郭の塾の窓前に芭蕉の木が植えられていたことから、『蕉窓雑話』と名付けられたこの書籍は、後世もっとも多く読まれた書物であり、東郭の没後19年目に門人たちの手で刊行された。この初編にある「東郭先生医則」という一文は、東郭の遺稿だと云われている。
付録として浅田宗伯の《先哲医話「和田東郭」》を記した。宗伯は医家の中から13氏を選び、その医説、治療法、症例などを抜粋引用集録して『先哲医話』を著したが、本書で取りあげたのはその内の和田東郭の項である。
なお、本書に於ける翻訳は、原典の意図を正確に読者に伝えるため、すべて意訳とした。(まえがきより)
A5判/398頁
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折衷派の泰斗として一世を風靡した和田東郭の書。更に「含章齋方函」および浅田宗伯の「先哲医話『和田東郭』」を加え、読者にわかりやすく意訳。
東郭は寛保3年(1743年)に、摂津の国、高槻(今の大阪府高槻市)に生まれた。東郭は名を璞、字を韞郷または泰純と称した。東郭はその号であり、また含章斎とも号した。
東郭の父親は名を祗忠といい、高槻藩の瘍科(外科)の医官で、父により東郭は本道(内科)を専攻させられた。幼少の頃は伊丹の竹中節斎のもとで勉強し、やや長じて大坂の名医、戸田旭山に入門した。
旭山は備前の武士だったが、家督を弟に譲り、京都で医業を始めた。しかし患者は来ず、極貧のため按摩をするなどし、やがて開業する機会を得て成功を納めた。旭山は後世方の医家で、非常に忠誠心が厚かく、病人を救うことが医学の目的であるとしていた。
26歳の時に意を決して戸田旭山のもとを去り、古方派の吉益東洞に入門した。東洞の医術は『傷寒論』や『金匱要略』のみを拠り所とし、また、万病は毒に因るとする「万病一毒説」を掲げていた。東郭も東洞流の医学を熱心に学び、古方の優れた面を認めつつも、東洞の治療に疑問を持ち始めた。東郭21歳の時、吉益東洞が亡くなったのを機に、古方のみの医学に別れを告げた。
東郭は、はじめ二条公に仕えた、24歳で御医となり、天皇にお仕えすることになった。たまたま、子ができない中宮を診察し、その原因は「久寒」であるから、附子などで温めるのがよいと進言した。東郭の言うとおりに治療したところ、はたして翌年に皇子が誕生し、この功績により東郭は医師としては最高位の法眼に叙せられた。56歳のことである。しかし4年後の享和3年(1803年)に病没し、京都の東鳥部山に葬られた。享年60歳。
東郭は「傷寒論の方が如何に妙方であっても、古書残欠故、何としても足りない処が有る。この足りない処を今方で補うことが出来るのは、後世に生まれた医師の幸である」として、後世方であれ、古方であれ、民間療法であれ、患者を治すためなら何でも取り入れという折衷の法で治療を勧めた。この治療は中庸を重んじ、吉益東洞のように激しいものではなく、温和な治療法であったため、広く医師たちの間に浸透していき、百々漢陰、有持桂里、浅田宗伯など日本の傑出した漢方医に大きな影響を及ばした。
和田東郭の著書は多い。しかし、治療の術は筆でも口でも現わすことができず、一心不乱に治療に専念して初めて会得できるものであるとの信念から、東郭自身は自ら医術を書き残さず、そのほとんどは口述筆記によるものである。主な書籍としては『蕉窓雑話』『傷寒論正文解』『蕉窓方意解』『腹診録』などがある。
東郭の塾の窓前に芭蕉の木が植えられていたことから、『蕉窓雑話』と名付けられたこの書籍は、後世もっとも多く読まれた書物であり、東郭の没後19年目に門人たちの手で刊行された。この初編にある「東郭先生医則」という一文は、東郭の遺稿だと云われている。
付録として浅田宗伯の《先哲医話「和田東郭」》を記した。宗伯は医家の中から13氏を選び、その医説、治療法、症例などを抜粋引用集録して『先哲医話』を著したが、本書で取りあげたのはその内の和田東郭の項である。
なお、本書に於ける翻訳は、原典の意図を正確に読者に伝えるため、すべて意訳とした。(まえがきより)
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